このたび、ツプテン・ジンパ博士の
「コンパッション 慈悲心をもつ勇気が人生を変える」の出版を記念して、
https://oejbooks.com/news/compassion/
ツプテン・ジンパ博士の動画をご紹介しています。
今回は
コンパッションの実践
この困難な時代への解毒剤
という動画をご紹介します。
提供:アウェイク・ネットワーク、コンパッション・インスティテュート
2021年5月22日(土)に放送されました。
この動画は英語で語られていますが、
YouTube動画の「設定」(右下の歯車のマーク)から
「字幕」→「英語」(自動生成)→「自動翻訳」→
「日本語」を選択することで、日本語字幕で見ることができます。
この1時間のビデオ動画で、ジンパ博士は、
困難な時代における特別な解毒剤
としてのコンパッションについて話しています。
瞑想をガイドして、
話をして、そのあとコミュニティからの質問を受けました。
また、ジンパ博士の新しいコース
「Building Compassion from the Inside Out」
についての詳細も紹介されています。
このコースは、コンパッション・インスティテュートを通して提供され、
コンパッションを日常生活の指針とし、
積極的に行動する方法を探る2週間のセルフガイド・プログラムです。
このコースの詳細については、こちらをご覧ください。
https://www.compassioninstitute.com/bcftio/
今回このレポートでご紹介する動画は、
コロナから1年が経過した2021年5月に話されており、
多くの人がコロナの状況に苦しんでいる時期でした。
博士はこのような時期に、
この困難な時期に、どのように
「コンパッション」を実践するか?
というテーマで話されています。
この動画の中で、
最初にコンパッションの瞑想をガイドされていますので、
一緒にその瞑想を体験していただけます。
その瞑想の中で、私たちが、
集合意識的な部分で、苦しみを分かち合っていること、
個人も、社会も、その状況に苦しんでいることに意識を向けて、
私たちが勇気を見出せますように、
希望を失わないように、
この苦しみを克服できますように、
私たちが無事でありますようにという祈りを捧げています。
このジンパ博士の瞑想は、
まず今ある苦しみに意識と気づきをもたらしながら、
同時に、自分の中にすでに存在している、
自分以外の誰かをケアするという
自然な能力を体験する機会ものとして行われました。
そのように、コンパッションは
私たちの基本的な要素として、
自分自身を構成しているものだと、
ジンパ博士はこの瞑想の後の話の中で語っています。
そこで、このレポートでは、
そこで語られたジンパ博士のお話のあら筋を翻訳してお届けします。
それでは、以下のジンパ博士のお話の概略を翻訳文としてお届けします。
コンパッションの実践
この困難な時代への解毒剤
コンパッションの科学的見地
私たちの中には、自然な性質として、
自分以外に、他の人をケアするという性質があります。
この性質は、私たちの基本的な性質として
私たちの中にあるものです。
この考えは、従来のスピリチュアルの伝統の中で、
例えば仏教的な伝統では「基本的な善良さ」として、
キリスト教では「神性の火花(発露))というような
言い方をされていましたが、
現在では、
その人間の性質についての科学的検証がなされ、
人間は本来社会的動物である、
というころから本来人間の性質として備わっているものである
ということがわかってきています。
その社会的的動物であるというところから、
人間は本来つながりと関係性を
その性質として持っているということが言えます。
ですから、コンパッションと人間の幸せ、
あるいはウエルビーングが強く関連しているといえるのです。
しかしこれは、表面的に考えると逆説的にも思えます。
というのは、コンパッション(慈悲、思いやり)は
他の人の苦しみに注意を払うことであり、
常識的に考えると、
「自分の苦しみもどうにかできないのに、
どうして他の人の苦しみに構うのか?」
と思ってしまうからです。
しかし、自分の狭い了見からでると、
他の人を思いやることは勇気への扉を開くことになります。
そうすることで、
つながりは本来の私たちに不可欠であるということが、
私たちの社会的なリアリティとして受け入れられます。
イエール大学の幼児認知研究センターの有名な研究があるように、
子供がまだ話し始める前、
生後数ヶ月のこともでも、
子供は自然に、助ける人と邪魔(妨害)する人を区別することができ、
子供は邪魔するものよりも助ける方を好む、という研究があります。
ですから、私たちは
子供の時から良いものと悪いものを見分けることができると言えます。
つまり、私たちの中には、最初から、
初歩的なモラルの感覚があると言えます。
ですから現代の科学的研究によって、
私たちの中には衝動的なコンパッション(思いやり)の感覚、
親切への衝動が、
私たちの深いところに根付いている、
ということが言えます。
今の時代のように、
私たちの気持ちを挫けさせるようなことが
世界で起こっているようなときにこそ、
このようなことにスポットライトを当てて、
そのことを認め、祝うことが大切だと思われます。
ジンパ博士が南インドで、まだ若い僧侶だった頃に、
チベットの仏教の伝統での教えの中で、
ある僧侶が、毎朝
人間として生まれていることに感謝を感じ、
そして利他の意図がもたらす恩恵と美徳について熟考する
ということを聞いて、とても感銘を受けました。
そして、8世紀にチベットの仏教で
コンパッションのマスターだと言われているシャンティデヴァは、
「仏陀は長い間瞑想して
利他的な意図こそが最も高い恩恵の源となると言った」
いうことを語っています。
今の時代において、
このことに意識的に注意を向け、
それが本来の私たちであるということを認めることは
とても大切なことです。
感謝の中で、自己の価値の感覚を
その利他的な意図に根ざすようにすることはとても大切なことです。
なぜなら、この質、この能力は普遍的なものであって、
誰もが持っているものだからです。
そのことを得るために、それを探したり、
自尊心を高めたり、他の人を引き下げて、自分を押し上げる必要はありません。
喜びとプライドを持つのは、
人間であるということだけで十分です。
とりわけ、自分自身を批判したり、
自分に厳しすぎるような、
セルフコンパッションの問題を抱えている人にとっては、
人間は社会的な性質があり、
本来の人間として持っている自己価値の感覚を持つことは大切だと思います。
そのことが、その問題に取り組む上で大切だと思います。
① 孤独へのパワフルな緩衝材としてのコンパッション
他に、コンパッションの役割として大切なことは、
コンパッションは孤独へのパワフルな緩衝材になるということです。
パンデミックが起こる前から、
孤独は大きな社会的な問題でした。
孤独の流行とさえ言われていましたが、
このパンデミックの中で、
その孤独の問題がさらに大きくなりました。
わたしたちは社会的な性質を表現すること抑えることを強いられました。
社会的に孤立することを守らなければなりませんでした。
特に西洋では自主的であることを強調されることから、
結婚していたり子供がいない人は、一人で住んでいる人が多くいました。
一人でいるからと言って孤独であるとは限りませんが、
一人でいると孤独になりがちです。
孤独は人を殺してしまいます。
この詳細には立ち入りませんが、
孤独は健康と長寿において、
大きな問題の原因となっています。
コンパッションは孤独の問題において強力なバッファーになります。
なぜなら、コンパッションのコアは
誰かとの繋がりの感覚だからです。
もしあなたが誰かとのつながりを感じることができれば、
孤独感を感じることがなくなります。
なぜなら、
孤独は他の人との繋がりの喪失であり、
疎外感の経験だからです。
ですからコンパッションにもっと意識をおいて、
コンパッションから生きることが孤独を防ぎ、
孤独に対するパワフルな態度になります。
② コンパッションはマインドに回復力をもたらすパワフルな要因となる
また別の大切なポイントとして、
コンパッションはマインドに回復力をもたらすパワフルな要因となります。
コンパッションは私たちの中にある勇気を育てます。
なぜなら、
コンパッションは自分にフォーカスするという自分の殻から一歩踏み出し、
自分を超えて他の誰かと繋がることを要求するからです。
そのようにしたときには、ダライラマは、
「コンパッションが湧き上がると内なる扉が開く」
というふうに表現しています。
そして内側の扉が開くと、
他の人につながりやすくなります。
つまり、コンパッションや思いやりが湧き上がってくると、
ハートが文字通り開き、
だれかに手を差しのべることが容易になります。
そして誰かにつながると、
外に一歩踏み出すことができ、
そうすることで、
自分の経験と状況を同胞意識という観点から
ものごとを見ることができるようになります。
そうすることで、
たとえ私たちに問題があっても、
その問題はどこかに行くわけではありませんが、
その自分の問題に対する見方が全く変わってしまいます。
一般的に言うと、
その問題に対して、
自分にフォーカスした見たからだけ見ていると、
その問題はとても大きなものに思えてしまいます。
同胞意識という観点から 見ると、
自分の問題も、
これまでとは全く違った目で見ることができるようになります。
そうすると一人ぼっちで対処しなければならないという感覚がなくなり、
自分の中に余裕が生まれます。
そうすることで、また別の視点が可能になってきます。
自分の問題への見方や取り組みも変わり、
そうすることで、回復力や勇気も生まれてきます。
それもコンパッションがもたらす大きな要因です。
③ コンパッションは意味と目的をもたらす
私にとって、
コンパッションがもたらす最も大切なことは、
私たちに意味と目的をもたらすことです。
科学的には、わたしたちは合理的な生き物、
感情的動物、社会的動物と言われていますが、
深いところでは、
意味を求める、道徳的な生きもと言いたいと思います。
これが真実であるのは、
不幸にも、もしあなたが、
自分の個人的な価値観に反するところで働くことになった場合のことを考えるとわかると思います。
そのとき自分が感じる痛みを想像してみてください。
その痛みは、自分にはある価値観があって、
働いている場所の価値観が自分の価値観に反しているというところからきます。
このことは、私たちはモラルの生き物である
ということを示している強力な証拠です。
価値観はわたしたちにとって大切なのです。
価値観と意味。
人々は、高い報酬をもらえる仕事を諦めて、
より意味と目的を見出せる仕事を選ぶことがしばしばあります。
これは不合理ではありません。
むしろ賢いといえます。
なぜなら、
わたしたちは意味を求める動物だからです。
そして、より大いなる意味を求めるためには、
コンパッションを持って、
そのスペースに開いていくほどパワフルなことはありません。
なぜなら、その意味というのは、
奉仕の経験を通して、自分の価値観を見出すことからやってくるからです。
ですから私にとって
コンパッションの美徳というのは、
意味と目的を見出すことにあると思います。
コンパッションはそのために、最もパワフルなものです。
④ コンパッションは明晰さをもたらす
最後に、
コンパッションのとても大切な要素として、
それは今私たちがとても必要としているものですが、
コンパッションは
私たちが感情的になったりモラルの混乱がある時に、
明晰さをもたらすことができるということです。
不幸にも、今、多くの人たちが
パンデミックで経済的な苦境に立たされています。
しかし多くの人たちはもっと収入を増やしたり、
あるいは、お金を使わないので経済的に豊かになっていたりもします。
というのは外に出かけたり、外食したり、買い物などができないからです。
そして幸運にも経済的なだけ気を受けなかった人たちは
罪悪感を感じている人もいるでしょう。
そういうふうな混乱があったりします。
さらには社会的正義の問題などに目覚めてきていることなどもあります。
組織的なバイアスが明らかにされたり、
法執行機関の残虐行為が暴露されたり、
それに加えて世界で極端な政治的分断がなされ、
異なった政党間で辛辣な言説がなされています。
多くの人たちが、
このようなことについてどのように考えればいいのか
ということさえ分からなくなって、戸惑っていたりします。
自分の個人的な問題においても、モラルについての混乱があったりします。
これらの状況において、
とりわけ罪悪感を感じている人たちにとって、
コンパッションをもたらすことは解毒剤になります。
罪悪感というのはおかしな感情です。
罪悪感はパワフルなモラルの感情でもあり、
大切なものです。
罪悪感を感じることができない人は危険にもなりえます。
しかし他方で、
罪悪感があまりにも長く続くようになると機能不全になります。
というのは、罪悪感というのは、
その性質からして自己に意識が向いています。
自分自身についてものです。
自分が居心地悪く感じるのです。
モラルに関して居心地悪く感じるわけです。
そこでコンパッションを持つようになると、
罪悪感は、手を差し伸べて、
人の助けになるための強力な動機になります。
寛容さはそのコンパッションのパワフルな表現です。ですから、
コンパッションによって
罪悪感を寛容的な精神に変容することができるのです。
ある人たちは経済的に分かち合うことのできる立場にある人もいるでしょうし、
そうでない人もいるでしょう。
その場合は、注意を向ければいいのです。
奉仕を提供したり、人助けをすればいいわけです。
私は、コンパッションはそのようなパワーがあると思います。
同様に、毎日流されるニュースに対して、
これらの社会的な問題に対してどのように理解すればよいのか、
どのように扱えばいいのかがわからなくなっているとき、
その混乱を断ち切るシンプルな方法として、
自分にこのように問いかければいいのです。
「もし私がコンパッションのレンズを持っているとすれば、
私はこれをどのように見ればよいのだろう?
もし私がコンパッションを重要な視点としてもつならば、
それが組織的なバイアスの問題であろうと、
社会的正義の問題であろうと、
気候変動の問題であろうと、
私はそれをどのように考えるとよいのだろう?
これに対してどのように振る舞えばよいのだろう?」と。
個人的な罪悪感に対しても
同じように問いかけてみることができます。
「もし私がコンパッションをもたらすなら、
どのようにこれを変えることができるのだろうか?」
人間関係の問題やチャレンジに対しても
同じようにすることができます。
両親と子供との間でも。
思春期の子供を扱うのは困難です。
常に両親の権威に逆らってきます。
それらの状況において、
自分自身にそのような質問をする以上に
明晰さをもたらすものはありません。
「ここで最も慈愛をもたらすにはどうすればいいのだろうか?」
こうすることで、コンパッションは
パワフルなリソースになってくれます。
解毒剤になったり、
自分の中にスペースをもたらすことができるようになります。
私たちの中にある自然なコンパッションを育成して、
これらのリソースを使うことができるようにするために、
コンパッションについての仏教的な信仰は必要ありません。
⑤ コンパッションをパワフルなフォースにするためにできること
最後に、
人間の基本的なリアリティについてお話ししましょう。
初めに私たちが瞑想をしたように、
ケアーするという能力はすでにそこにあります。
わたしたちはそれを学んだわけではありません。
それは自然なものとしてそこにあります。
唯一の違いは、
私たちがそのことに注意を向けて、
それを抱きしめ、
それをパワフルな力(フォース)とするかどうかにあります。
なぜなら、
私たちの中には他のフォースもあるからです。
他のフォースを選ぶこともできます。
例えば、憎しみとかなどに。
しかし、コンパッションを選ぶこともできます。
なぜならそれは私たちの性質の一部だからです。
コンパッションについての開発されたいろんなテクニックがあります。
例えばシェアンティデヴァによって作られてテクニックなどもあります。
ダライ・ラマは仏教の知恵、テクニックとして、
その経験を一般的な公衆に語っています。
ですから、そのようなテクニックなども使っていくことができます。
そしてコンパッションが素晴らしいのは、
誰もが持つことができるということです。
まず最初に、
私たちの中にある自然なものとして気づくことが大切です。
そしてそのコンパッションに意識的に注意を向けます。
そして私たちが世界に関係するときに、
ものごとを見るための基本的な立場ないし視点として
コンパッションを選ぶということです。
世界を見る見方として、
ジャッジなどの他のものの見方を選ぶのではなく、
世界をコンパッションの見方で見ることを選ぶことです。
それは人間に共通した経験として認められているものです。
⑥ コンパッションをキーモチベーションとする
そしてまた、
コンパッションを重要なモチベーションとして選ぶことです。
なぜなら、モチベーションというのは、
感情レベルでのモチベーションがありますし、
時には、
なぜ私たちがそのようなことをするのか動機が明らかでない場合もあります。
フロイトは、私たちの多くは、
動機について意識的でないことを明らかにしました。
それはパワフルな洞察です。
しかし私たち人間は複雑な生き物で、
恐怖からの動機づけがあったり、
脅迫による取り調べとか、
競争や欲望や貪欲などもまた別のモチベーションです。
喜びを求めるたり、
また同様に似たような基本的なモチベーションとして、
滋養を求めたり、
つながりを求めたり、
鎮静を求めたり、
それもまたモチベーションです。
このように私たちには異なった動機づけのシステムがあります、
いろんなモチベーションがありますが、
コンパッションは第3のカテゴリーに属します。
つながりを求めたり、
滋養だったり、
心を鎮めるなどのことです。
もし私たちがそれをモチベーションとして選ぶことができれば、
例えば配偶者や子供や両親や同僚などの、
人生の中での愛する人との関係性などで、
私たちは選ばなければなりません。
とはいっても、
もちろん感情的になっている場面などでは
選ぶのは非常に難しいですが、
一般的な状況では、
どのシステムのモチベーションを選ぶかを選ぶことはできます。
しかしもし私たちが、
コンパッションを基本のモチベーションの源として選ぶことができるなら、
ダライラマなどがわたしたちに示してくれているように、
深い平安、落ち着きがあります。
個人的なレベルでは、
不安などがなくなります。
深い落ち着きがあります。
そのような人にはパワフルな勇気があります。
同時に、とても大きな意味や目的を持っています。
そしてまた、喜びがあります。
これらのことは、そこにあります。
アチーシャが語った詩を思い出します。
「あなたが敵対する環境にあろうと、
友好的な環境にあろうと。
強いネガティブな感情的なリアクションがあるとき
これらをスピリチュアルな学びの源と考えられるなら、
そのような人は、どういう状況であろうとも、
喜びを見出すことができる」
私は、これはパワフルな考えだと思います。
もしその証明が必要とするなら、
ダライ・ラマのようなはその証明と言えます。
私は長年彼の近くで過ごす特権がありましたので、
そのようにいうことができます。
彼にできるなら、わたしたちにもできると言えます。
なぜなら彼も同じ人間であり、
その同じ構成要素は私たちにもあるのですから。
そのようなパワフルなコンパッションを
私たちのものにすることはできるのです。
⑦ コンパッションに意図的になる
「あらゆる徳の中で、もし一つだけ選ぶとすればそれは何か?」
と問われたとき、
仏陀は「コンパッションだ」と答えました。
私はそれは本当だと思います。
数多くの美徳がある中で、
コンパッションは、それらすべての美徳を根付かせるものとなります。
しかも、コンパッションの素晴らしいところは、
コンパッションを学ぶ必要はないということです。
それは私たちの中にあります。
ただ私たちはコンパッションにもっと意図的になり、
もっとコンパッションに意識をもたらすことができるように訓練する必要があります。
コンパッションの精神的な質そのものはすでに私たちの中にあるのです。
このようにコンパッションを考えることはとても助けになります。
そのように私自身していますし、
私の人生の中で、このようにすることで、
それがパワフルであることを実感しています。
そうすることで、人生を喜びに満ちて、
目的を持って生きることができます。
そしてそのようなエネルギーを自分の周りに作り出すことができれば、
あなたのその周りの人も同じような味わいを感じることができるようになります。
ダライ・ラマの願いは、
私たちがもっと慈愛に満ちた社会をつくることができるようになることです。
そしてそのさざ波が世界へと広がっていくことです。
ですから私はコンパッションにもっと意識をもたらして、
コンパッションに理解をもたらしたいと思っています。
ただ単に私たちの中にコンパッションがあると信じるのではなくて、
そして、それがどうしたと思うのではなく、
コンパッションについてもっとワクワクして、
お祝いして、抱き締めれば、
個人の人生の中で、それをターニングポイントにしていくことができます。
ありがとうございます。