ものの見方が変わると人生が変わる

前回は、これからの時代には、
コンパッション(慈悲心・思いやり)が幸せの条件になる、

ということについて書きました。

その前提として、

今はどのように時代が変わろうとしているのか?
そしてコンパッションとはどういう意味か?

ということについて少し考察しました。

そのことをもう少し深く紐解いこうと思いますが、
その前に、

これまでの時代における物の見方と
コンパッションのものの見方との違いを
見ておくことが、

なぜ今の時代にコンパッションが幸せの条件となるのか
ということを理解する手がかりになるかと思います。

前回、コンパッションの定義を考察したときに、

語源はラテン語のcom(一緒)とpati(苦しむ)に由来している
ということを紹介しました。

ケンブリッジの英英辞典では
「他人の苦しみや不運に強い同情心や悲しみを抱き、
助けたいと思うこと」
という定義を紹介しました。

つまり、コンパッションとは、

他人の苦しみを認識したときに、
その苦しみを感じて、
それを助けたい(苦しみを取り除いてあげたい)と思うことであり、
そのために行動することを意味します。

仏陀の慈悲(コンパッション)は、

当時釈迦国の王子であったお釈迦さまが
人間の四苦八苦を見て、

その苦から救われたいと思って修行して悟りを得たあと、

その悟りの真理は深遠で、執着を好み、楽しんでいる人々には
それを理解することは出来ないと思い、
その真理を広めることをためらっていたところ、

それを知った梵天が、それでは世界は滅びてしまう。
消滅してしまうというので、

その教えを聞く耳ある者たちもいるだろうということで
その梵天の願いを聞き入れて、教えを説いたところにあります
(梵天勧請)

それは仏陀の慈悲によるものでした。

コンパッション(compassion)の同義語と言われているものに
同情(sympathy )や 哀れみ(pity) が あります。

しかしそれらはまったく異なっています。

sympathy の sym というのは「同じ」、という意味があり、
pathy の語源はギリシャ語の pathein(苦しみ)から
来ているとされています。

相手の苦しみを感じるという意味では同じですが、
どこかで、
相手のことをかわいそうに感じるけれども、
「自分はその苦しみに直面していなくてラッキー」
という気持ちが隠れているように思われます。

では、Pity はどうでしょうか。

Pity というのは哀れみとか、かわいそう
という意味に訳されますが、

語源的に見ると
ラテン語のpius(信心深い)+ itas(こと)が語源で
「信心深いひとが見せる思いやり」という意味になるようです。

哀れみという言葉の裏には、
「自分の方が優れている」というような優越感が
あるように感じられます。

このように、

コンパッションと同情、哀れみとの決定的な違いは、

コンパッションは「相手に」フォーカスがあるのに対して
同情(sympathy)と哀れみ(pity)は
「自分に」フォーカスがあるという点にあります。

これに対してempathy (共感)は少し違っています。

「共感はコンパッションが湧き上がるスペースになる」と
CCT(コンパッション育成トレーニング)では考えられています。

Empathyとはオックスフィードディクショナリーによると
The ability to understand and share the feeling of another
(他者の気持ちを理解し、共有する能力)
と定義されています。

つまり、

他の人の感情を「理解すること」と   
その「フィーリングを分かち合う」
という意味になります。

語源的には
pathy の語源はギリシャ語の pathein(苦しみ)であるのは
sympathyと同じですが、
em は in と同義であり、より相手の苦しみの中に入っていくという
ニュアンスがあります。

では、共感(empathy)と慈悲心(compassion)との
違いはどこにあるのでしょう?

CCTの考え方によると

共感は相手の苦しみなどを「感じる」ことに重点があるのに対して、

コンパッションは、その苦しみに対して何ができるのか?
という、「行動」に重点がおかれているところに違いがある

とされています。

真のコンパッションは、無条件のもので、
自己中心的な考えを持たないものです。

そして、そこが、コンパッションが、
これまでの時代で価値がおかれていた、
個人主義的な考え方と異なっているところです。

これまでの資本主義的な考え方によれば、
西洋の個人主義的な考え方がベースにあります。

極端な言い方をすれば、
自分さえ良ければ、他はどうでも良いという考えが
ベースにあるようです。

その資本主義社会の中で、
競争社会をつきつめていった結果、
極端な貧富の差が生まれ、
現代社会の社会問題となっています。

そんななかで、
私たちは真に幸せに感じることができるでしょうか?

私たちが、本当に幸せに感じるときって
どのような時でしょうか?

コンパッションについて理解する上で、

OSHOネオタロットに、OSHOが語っている、
仏陀の美しい物語があります。

「仏陀が亡くなって、天国の入り口に着いた。
 そこにいた人々が扉を開けて彼を迎え入れようとした。

 そこで仏陀が後ろを振り返ると、多くの人々が列をなして、
 苦しみ、もがきながら、天国に入ろうと努力しているのが
 見えた。

 天国の門番が仏陀に言った。
 『早くお入りください。私たちはあなたをお待ちしていました』

 仏陀は言った。
『他の人々がまだ到着していないのに、
 どうして私だけが入ることができるだろう? 
 私は待たなければならない。
 私の手は入り口についたが、私の足はまだ到着していない。
 私の手だけが入るわけには行かない』

 仏陀は今も、天国の入り口で待っていると言われている。

 私たちは孤島ではない。私たちはみんながつながっている」

 コンパッションというのは、そのことに気づくことです。
 私たちはみんながつながっているということに。
 
 私たちは自分だけで幸せになることができるものではなく、

 みんなが苦しみから自由になってはじめて
 幸せを感じることができるのではないでしょうか?

 OAU
えたに