「慈悲の瞑想」で幸せになる理由

最近は、「慈悲」(コンパッション)のテーマについて
いろいろ調べています。

もともと慈悲という言葉は
仏陀の教えがもとになっているものなので

本来の仏陀の教えというものを
知っておく必要があると考え、

仏陀の教えを守っている
上座仏教の教え
を調べている中で、

日本テーラワーダ仏教協会の
アルボムッレ・スマナサーラ長老の教えを見つけました。

以前にも、彼の
マインドフルネスのついての本は読んだことがあるのですが、
今回はYou Tubeの動画を見つけました。

テーラワーダというのは、
パーリ語で長老の教えという意味なんだそうですが
一般には上座仏教のことを指しています。

上座仏教は、以前は大乗仏教に対して
小乗仏教と昔の社会科の教科書では習ったのですが

それは史実と異なるということで、
今では上座仏教いう呼び方が正しいようです。

上座仏教では、仏教は
お釈迦さまがはじめて真理の悟りを開き、
その道を説かれたものであるので、

そのお釈迦さまが説かれた本来の教えを
そのままに実践すべきだ、
ということを教えて、実践しています。

ですからそこでは、
お釈迦様の言葉に近い教えが
教えられているとも言えます。

そこで、
そのスマナサーラ長老のYou Tubeですが、

 慈悲こそ人生の必需品
「慈悲の瞑想」で幸せになる理由

というテーマでの法話があったので、
興味が惹かれて見てみました。

その教えを聞くと、お釈迦様のお話は、
非常にリアリスティックで論理的であることがわかります。


まず、人はエゴイストであり、
自分の都合しか考えないという
人間に対する認識があります。

そして、

生きることは残酷な世界であり、
悩み、苦しみ、恐怖でできているという
世界観があります。

そのようなエゴと恐怖心から生き続けていると
お互いが奪い取ることでトラブルが生じます。

闘うという競争社会のなかでは、
強いものが勝つという弱肉強食による
残酷な仕組みが成立します。

それが自然の世界であり、
生命の法則はみな同じです。

そして私たちは

自分の五感で感じること、
考えること、イメージできることしか
わかりません。

自分に見えることしかわからない
自分の主観のことしかわからないのです。

そうすると、
自分の世界しかわからなくなります。

人の痛みや悩みを忖度しなくなり、
他人のことがわからなくなります。

みんながそのように生きている世界は
残酷な世界のままに、苦しみの世界に
生きることになってしまいます。

しかし、

そこにはもうひとつの認識が抜けています。

それは、

人間は一人では生きられない、

ということです。

人には心があります。
虫にも心があります。

心とは感じる能力のことをいいます。

その感じる心は
人と人をつなぐことができます。

ネットワークをつくることができます。
ネットワークの中ではお互いを支えあうことができます。

そのようなネットワークの中では、
他人は闘うべき敵ではなくなり、
味方になります。

私たち人間は、
他の生命がなければ生きていけません。

私たちは生命のネットワークの中で生きています。

食物連鎖は言うに及ばず、
微生物、バクテリアがなければ生きていけません。

私たちの遺伝子の中には、
ウイルスの遺伝子さえも
含まれていることを考えると、


それらのウイルスとさえ、
共生して生きてきたという歴史があります。

それはともかく、

そこで、スマナサーラ長老は言います。

どんな生命も幸福に生きていきたい。
でも、どんな生命も幸福に生きていない。

そこでできることは何か?

それは、

生命のネットワークに
幸福のエネルギーを限りなく送ることだ。

それが「慈悲の瞑想」だ、と。

そうすることで、
幸福に生きられるエネルギーが限りなく得られる、と。

スマナサーラ長老は、
どこに行っても不安はないのだそうです。

なぜなら、
彼のこれまでの人生は、

どんなところに行っても、
どんなことがあっても、

お願いすればすぐに
みんながやってくれたんだそうです。

それは、

スマナサーラ長老の生き方が
慈悲喜捨の心で生きているからだと言います。

だから、

幸福に生きたければ、慈悲喜捨で生きなさい、
ということを教えます。


「慈愛は本能で、消すことは出来ない」

と、スマナサーラ長老は言います。

そして、
人はみな、自分を愛している
同時に、人はみなエゴイストであり、
そのことを認めることから始める必要がある、と。

だからまず、

慈愛は自分の幸福を願うことから始める必要があります。

まず、自分の中の慈愛を確認します。
その慈愛を他の生命にも及ぼします。

そして、
仲間を見て、慈愛を拡大します。

そして、
その慈愛を、生きとし生けるものへと拡大します。

そのようにして、
人は幸せになっていきます。

と。

しかし、そうしないで、
自我の気持ちを中心にすると
失敗して、不幸になります。

なぜなら、
自我とともに、
自分の都合に適した感情が現れるからです。

エゴイストは自分のことしか考えないので、
まわりに敵を作ってしまうからです。

慈愛があったら人を殺せなくなります。
人を殺せるのはエゴです。

自我があると、何だあんたは?って思ってしまいます。
なんでそんなことをするのか?って思います。

しかし、慈悲があると、

エゴが弱くなり、
ネガティブ感情が少なくなります。

そして、生命が平等だとわかります。

そうすると、
お前が悪いと言えなくなります。

そのようにしていくことで、
解脱に達すことができます。 

だから、

「究極の幸福に達する王道は慈悲なのだ」

というのが、
スマナサーラ長老の教えです。

慈悲の瞑想をする際には、
その順番が大切です。

まず、自我ではなく、
慈愛の感情を確保することです。

そして、
私は幸せになりますように、
と念じます。

本気になって念じることが大切で、
嘘を言わないことが大切です。

素直な気持ちを、親しい生命に広げていく 
猫やペット、普通の生命にも、拡大していきます。

そして、
無理をしてでも、
嫌っている生命にも拡大する
のだそうです。

そうすると、
その慈悲のバイブレーションが
ネットワークで起こるようになり、

すべての生命は仲間なのだ、
ということが感じられるようになる、
ということになります。

このスマナサーラ長老の教えは、
仏陀の教えをもとにした、宗教的な教えですが、

仏陀の教えは、非常に科学的で、
論理的であることがわかります。

Oshoでさえ、

「現代物理学がわからなければ、
 仏陀の教えを理解することは出来ない」
と言ったぐらいですから。


そこで、CCTでの学びを振り返ってみると、


CCTでは、最先端の神経科学や脳科学、
心理学や学習理論などをもとにして、

宗教としてではなく、科学的な検証と研究をもとに、
慈悲(コンパッション)を身につけられるように、
科学的に組み立てられていることがわかります。

これからの新しい時代においては
エゴに基づく社会の崩壊が
誰の目にも明らかになってきています。

その崩壊を防ぐためには、
慈悲(コンパッション)に基づく社会を
構築していくことが緊急の課題だと思われます。

そのためには、
一人ひとりがエゴから慈悲へと


意識を転換していくことが
必要になってきているように思います。

それが
土の時代から、風の時代への
時代の転換の意味することのように思います。

OEJ
えたに

P.S. スマナサーラ長老の教えられている
「慈悲の瞑想」の言葉を、ここに記載しておきます。

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように
私は幸せでありますように
私は幸せでありますように

私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
私の親しい生命にも悟りの光が現れますように
私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命が幸せでありますように

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように

私の嫌いな生命が幸せでありますように
私の嫌いな生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな生命の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな生命に悟りの光が現れますように
私の嫌いな生命が幸せでありますように
私を嫌っている生命が幸せでありますように

私を嫌っている生命の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている生命の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている生命にも悟りの光が現れますように
私を嫌っている生命が幸せでありますように

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように