前回は、瞑想と慈悲との関係について
Oshoの言葉を紹介しました。
そこでは、次のように語られていました。
「瞑想をしなければ、同じエネルギーは情熱のままとどまり、
瞑想をすることで、同じエネルギーは慈悲になる」
慈悲は英語ではcompassion と言いますが、
その単語の中に
Passion(情熱) が含まれているので、
どのようにそのpassion がcompassion (慈悲)に
なるのかという問題でした。
今回は、その「情熱」ということをキーワードにしながら、
その情熱が、どのようにセックスと愛と慈悲になるのか、
ということを考えてみたいと思います。
それは、私たちが、人生をどのレベルで生きているのか?
ということと密接に関わりがあるようです。
Oshoは、セックスと愛と慈悲の関係について次のように語っています。
「セックスは動物的であり、愛は人間的であり、
慈悲は神聖なるものだ。
セックスは肉体的、愛は心理的、
慈愛は霊的(スピリチュアル)なものだ。」
つまり、
情熱のエネルギーが性欲に向かえば
動物的、肉体的なレベルでのセックスになり、
情熱のエネルギーが人間に対する精神的なものになれば、
それが愛情として表現され、
情熱のエネルギーが瞑想を通して変容されれば、
霊的な慈悲になる、ということです。
このことを考える際に、
人間の進化の過程と照合して考えるとわかりやすいです。
私たち人間は進化の過程で、
さまざまな進化のレベルを経過してきています。
「胎児の個体発生は系統発生を繰り返す」
ということをはじめて知ったときには、
その生命の神秘に感動しました。
胎児の成長過程は、
30億年前にこの地球で生命が誕生して以来の進化の歴史が
「生命記憶」として埋め込まれ受け継がれています。
胎児の成長過程を写真で見ると、
魚類→両生類→爬虫類→哺乳類という系統発生の進化史の痕跡が、
母親の胎内に精子と卵子がくっついて、
すぐに成長し始めて、
10カ月後に誕生するまでの胎児の個体発生の過程に、
ものの見事に再現されているのです。
人間は霊長類と言われていますが、
私たちは、その進化の痕跡を経て、
この世に生まれているのです。
それだけではなく、
私たちの脳にもそのことが見て取れます。
私たちの脳には、
3つの脳の進化の痕跡があります。
それは、爬虫類的な反射脳(爬虫類脳)、
前期哺乳類的な情動脳、新哺乳類的な理性脳です。
その3つの脳が本能、感情、理性を司っていて、
それが爬虫類から哺乳類への進化の過程を反映しているのです。
このような進化のプロセスを、
セックス、愛、慈悲ということに当てはめて考えてみると
セックスというのは、動物的、肉体的であり、
本能のレベルに対応します。
愛というのは、人間的、心理的なものであり、
感情と理性のレベルに対応すると言えそうです。
愛というと、どちらかというと感情的なものと考えられますが、
私たちは頭で愛している場合がほとんどなので、
ここでは、感情と理性(マインド)のレベルに対応するとしておきます。
これに対して、
ハートでの愛は、頭(マインド)による愛とは次元が異なり、
神聖なるもの、霊的な慈悲に近いものになっていきます。
それはともかく、
仏陀は、慈悲を「瞑想+愛」というふうに定義しています。
瞑想というのは無心(ノーマインド)を意味します。
一般的、俗世間的な愛では、
さまざまな欲望とか必要性、
見返りを求めたりというような
要素が含まれています。
瞑想の中では、そのような
マインドによる不純物が取り除かれ、
エゴに基づく不純な愛は
純粋な愛となります。
ただ与える喜びから愛し、
愛する喜びから分かち合う愛へと
変容していきます。
しかしこのような慈悲は、
マインドを超えたものであり、
私たちの脳の機能である、
本能や情動や理性を超えたものなので、
考えて得られるものではありません。
「慈悲というのは、仏陀の経験であり、
覚醒したものの経験だ」
とOshoは語ります。
実際、それこそが、
私がこれまでの人生では感じたことがなく、
Oshoに出会ってはじめて感じた慈悲でした。
「あなたはこれらの問題について考えることはできない。
考えることをやめなさい。
あなたのエネルギーを考えることに浪費しないように。
すべてのエネルギーを瞑想に注ぎなさい。
沈黙し、意識的になり、見守り、
その注意深さの中で奇跡が起こる。
誰もが、この慈悲になるという奇跡を起こす資格がある。
それは私たちの生まれながらの権利なのだ。」
Oshoは究極の慈悲について語ります。
マインドを超えた愛、
瞑想のなかから生じる愛。
その慈悲というのは、
まさにその覚醒から溢れ出てくるものなので、
それについて考えたからといいて
どうなるというものでもありません。
しかし、
それは私たちの生まれながらの権利であるとすれば、
その権利を行使(実現)することは、
私たちが人間であることの証ともいえます。
私たちは幸せになる権利がある。
という言い方がされることがあります。
慈悲であることが、
幸せになる道だということには
人間として生きる上で、大きな意味があるように思われます。
病気や怪我をしたときに、
痛みや苦しみを経験するように、
痛みや苦しみがあるということは
どこかで生きる道を間違っていることの
兆候ともいえます。
慈悲はそれらの苦しみや痛みを取り除こうと
するものであり、
そこには本来の生き方の知恵がありそうです。
セックスと愛と慈悲と。
セックスと愛の次元で生きている限りは、
悩みと苦しみの種がつきないものです。
慈悲というレベルに至ってはじめて、
本当の幸せが手に入る。
私たちの進化の道は、
そのようにプログラムされているように
思われてなりません。
CEJ
えたに