「親切で、幸せでいてね」

前回、私のが書いたブログで、ハートフルネスについてご紹介しました。

「ハートフルネス」は、

「スタンフォード大学 マインドフルネス教室」を書いたスティーブン・マーフィー重松博士によって書かれた本ですが、

この本によると、ハートフルネス」とは「思考よりもハートを中心とする生き方」のことを言います。

重松博士はこの本を、人生の終末に近づいた人たちの「残念だ、死に向かい合って、私はやっと自分の生き方をみつけたところなのに」という言葉に導かれて書かれたとのことです。

このハートフルネスの本では、「新しい生き方に向かって目とハートを開き、自分を覆うベールを取り去り、見えてくるヴィジョンに従うことに努めてきた」博士の活動の一端が紹介されています。

私たちが目の前の課題に立ち向かうにあたって、
「愛に導かれて、ハートによって生きることができるだろうか?

 思いやりと、やさしさと親しさを持ち、

 人生には意味と目的があるという価値を信頼して

 生きることができるだろうか?」

と問いながら、その可能性を信じて生きているその姿を

この本でつづられています。

ぜひ「ハートフルネス」も読んでみてください。
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私はこの本に共感して、このジンパ博士の本の前書きを重松博士に書いていただきたいと思いたち、ジンパ博士の同意を得て、重松博士に前書きの依頼をして、快く同意していただいたという経緯があります。

ハートフルネスを読まれるとわかりますが、

重松博士のおばあさんは日本人で、そのおばあさんの思い出が描かれています。
そしてこのハートフルネスの本は、重松博士の祖母に捧げられています。

実は、このジンパ博士の「コンパッション」の本でも、
ジンパ博士のおばあさんとの思い出が、この本の核になっているのです。

この両方の本が、ともに祖母の生き方、思い出がその中核になっているところが、
このコンパッション、ハートフルネスの共通点であり、
そのことが私たちに教えてくれていることも多くあります。

実はこのコンパッションというのは、私たちがルーツとして
本来自分の中に生まれながらに持っているものなのですが、
現代社会の教育の中で忘れかけているものであるのです。

それを今私たちに思い出させてくれるがこの「コンパッション」のワークとも言えます。

では、なぜそのような本来私たちが持っているものを思い出すために、
わざわざそのようなトレーニングを受けなければならないのか?
と思うかもしれないですね。

でもそれは、現代の教育や社会によって見失ったものは、
それを再び取り戻すためにも再教育、ないし脱教育が必要だから
としか言いようがありません。

ジンパ博士は「コンパッション」の本なかで、そのことを次のように書かれています。

「やさしく慈悲深い祖母のもとで、叔父や叔母とのやり取りを見て過ごした一週間は、
 私にとってかけがえのない時間だった。

 祖母はごく自然な安心感を自分と周囲に放ち、
 彼女の周りにはピュアで自由な空気があった。
 年を重ねて身につけた賢さかもしれないが、
 私の人生とは対照的な彼女の人生がもたらした、
 深い叡智からくる静謐(せいひつ)さだと感じた。

どちら(祖母もジンパ博士)も同じチベット人でありながら、私たちの人生はまったく異なっていた。祖母には教育も教養もなく、私はチベットの高度な弁論の伝統で知られる仏教思想の大学の学生で、英語が堪能だったお陰で広い世界にアクセスもできた。

それでも祖母は私を気の毒だと感じた。それは彼女の眼差しから明らかだった。

当時の私は落ち着きのない野心的僧侶で、いつでも未来ばかり見ていてほとんど今という時間を生きていなかった。

祖母の慈悲深さに触れ、自分の今のありように完全に満足していて、今目の前にいる周囲の人々に心を開放している姿の奥深い美しさに触れ、私は教育を身につけ、成果や効率、進化に心を奪われてきた過程でいったい何を見失ったのだろうか、と考え始めた。これについてはこれからも自問が続くことだろう。」

これが当時の、慈悲深さを自然に身につけていたジンパ博士の祖母とジンパ博士の違いでした。そしてそれは、現代の私たちの姿でもあるように思います。

ジンパ博士がアメリカからカトマンドゥにはるばる祖母に会いに行き、そこでの家族との出会いを通して、別れ際に、祖母はジンパ博士に言います。

「祖母は私の目をまっすぐ見てこう言った。『親切で、幸せでいてね』」

「この時以来、私は可能な限りこの言葉に従って生きてきた。時の経過とともに、これは慈悲についてのことだとわかってきた。そうするべきだからという理由で、何とか親切な人になるように、また幸せでいるよう努めるという話ではない。自分自身や周囲に対して親切でいることにより、人は自ら幸せになるということだ。私はそれが家族の義務だから、そして教師に行けと言われたからカトマンズに行った。あの旅が自分への親切の行使だったとはついぞ気づかなかった。しかし祖母に会ってから、ものの見方が変化した。ある意味で、慈悲の育成プログラムは祖母にとっては極めて自然なことを、他の人々向けに体系化し、「翻訳」したものと言えるかもしれない。

先日紹介したマニーシャのオンラインプログラムで、マニーシャは、「瞑想は自然な状態」だと語ります。
https://oshoartunity.com/blog/post_lp/skills-for-life_online

「なぜ、瞑想は自然な状態なのに、瞑想のテクニックが必要なのですか?」という質問に対して、マニーシャは言います、「私たちが自然な状態を忘れてしまったから。」

それと同じことがこのコンパッションにも言えるように思います。

先日亡くなられた龍村仁監督の地球交響曲第二番でダライ・ラマは次のように語っています。

「人間の究極の本性は慈悲と利他の心であり
 我々が本来持っている霊性に目覚めることこそ
 21世紀のあらゆる問題を解決する鍵である」
 https://youtu.be/tHNDyVff3lU

このコンパッションの鍵は、
この21世紀のあらゆる問題を解決する鍵である

というダライ・ラマの言葉は、現代の社会をみていると、ひしひしと感じられます。

そういう意味で、これからはコンパッションの時代だと思いますし、
一人でも多くの人にこの本を読んでいただきたいと思います。
https://oejbooks.com/news/compassion/

そしてそのコンパッションを身につける、
「コンパッション育成トレーニング」(CCT)はこちらです。
https://compassioneducation.jp/schedule#cct

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