心を開いて人を思いやるとき

コンパッション(慈悲心、思いやり)について
考えるとき、

自分がコンパッションについてどういう体験をしたのか、
ということがその源泉になります。

なぜなら、
コンパッションとは頭で考えることではなく、感じることだからです。

私たちが最も影響を受け、
後になって最も鮮明に思い出すのは、

人が自分に見せてくれた優しさや思いやり、
慈愛(コンパッション)の経験ではないでしょうか?

その体験は人によって、それぞれでしょう。

ある人にとっては、両親から受けた愛情だったり、
ある人にとっては困ったときに助けられたこと、
思いやりのある言葉や笑顔に助けられた経験だったり、
あるいは、病気で何もできなくなったときに受けた看護の経験かもしれません。

そして、コンパッションが、本当に深く心に触れたとき、
理由もなく涙が流れることがあります。

私がそんな深いコンパッションに触れたのは、
インドの神秘家Oshoから感じたものでした。

そのコンパッションの経験が私の人生を変えてしまいました。

コンパッション(慈愛)が、
それほどパワフルなインパクトをもたらすのはなぜなのでしょうか?

それは私たちの人間とそての最も深いレベル、
最も人間らしいところでつながっているからなのだと思われます。

私たちは、自分のエゴやマインドセットにとらわれ、
それがブロック(障害)になって、
自分の中に本来あるはずの内なるコンパッション
につながるのが難しくなっています。

そのことについては、前回考察しました。


悟りを得た神秘家という人は、
そのようなマインドやエゴがなく、
コンパッションそのものが溢れ出ている存在だと思われます。

そのコンパッションに触れて、共鳴したとき
自分の内なるコンパッションは、言葉にならない、無言の涙を流します。

そのような他の人から受けたコンパッション、
ブッダ(覚醒を得た存在)から感じたコンパッションが、
自分の内なるコンパッションに触れるシード(種)となります。

そしてまた、
私たちが社会的動物であることも、
コンパッションは私たちが遺伝的に生まれ持っている
動物だとも言えるのかもしれません。

そこから、

他の人が困難に直面したときには、
その自然な応答として、コンパッションが生じてくるのでしょう。

ただ、私たちがそうでないときがあるのは、

私たちが自分に囚われ、自分のエゴに囚われ、
自分のマインドにとらわれているときであるのは
そすでに見たところです。

しかし、心を開いて人を思いやるとき
目の前にいる人に手を差し伸べるというのは、
私たちの自然な応答となるのです。


「思いやりは、苦しんでいる人に対するごく自然な反応です。 
 可能な限り親切にする、それは常に可能なのです」

と、ダライ・ラマは語っています。

ダライ・ラマのような慈愛の人にとって、
コンパッションとは、かくも自然なものなのです。

そのようなコンパッションは、
自分のハピネス(幸せ)にとって
とても大切なものだ、と彼は語っています。

ところが、

私たちが住んでいる現代社会の個人主義、競争社会では,

私たちは、自分に厳しくなる傾向があって、
自己批判的になってしまいます。

そのようにして私たちは、
自己との関係性が機能不全になってしまっているのです。

外側からの基準によって、自分を他と比較し、自分を批判し、
自分に価値を見いだせなくなってしまっているのです。

そのような自分にコンパッションを取り戻すことが、
自分の人生に幸せを取り戻す土台になります。


CCT(コンパッション育成トレーニング)では、

私たちの思いやりの経験は自然に私たちの人生に存在し、
どこにでもあることを学びます。

また、誰かの思いやりを受け取る側としても、
思いやりを体験できることを学びます。

そして、誰かに思いやりを与える側として、
それが他者への思いやりとなることを学びます。

そしてその思いやりは、
自分自身に対する関係の中でも体験することを学びます。

コンパッションを学ぶとは、
心の扉を開くことであり、

それが幸せへの扉を開くことになるのです。

「もしハピネスを本気で求めるなら 
 コンパッションを真剣に学ぶ必要があります」

とダライ・ラマが語るのは、
そういうところにも、理由があります。

OAUえたに