正しい瞑想の見分け方

慈悲の心と言われても、
それがいったいどういうものなのか、
どこか遠い国の話のように
思われるかもしれませんね。

それがいったい、実際に、
どういう役にたつのだろう? と。

瞑想についても同じです。
私たちはマインドの世界に生きているので、

どうしても、実用性のレベルで
ものごとを判断しがちです。

しかし慈愛や瞑想は、
そのようなマインドを超えたところに
存在しています。

従って、
正しい瞑想と間違った瞑想の見分け方
というのは、マインドではできません。

瞑想をはじめたころに、
果たしてこれでいいのだろうか?
思うことがあります。

あるいは、瞑想していて
多くの人が疑問に思ったりするのは、

瞑想して、一体何の役に立つのだろう?
ということだったりするでしょう。

そうしたときに、
その瞑想が正しいかどうかを
見分けるには、判断基準があると
Oshoは言います。

Oshoは、それについて、
次のように語っています。

「もしその瞑想が正しかったら、
 慈悲は必ずやってくる。

 それは自然なことだ。
 慈悲は影のように瞑想に従う。

 もし瞑想が間違っていたら、
 そのときは慈悲がそれに従うことはない。

 だから慈悲は、
 瞑想が本当に正しかったかどうかを
 判断する基準として機能することができる。」

そして仏陀は、

「慈悲は瞑想の副産物、結果だ」
と言っています。

もし仏陀の言うように、
慈悲の原因となるものが瞑想であり、
その結果として慈悲が生じるなら、

慈悲が何であるかを本当に理解するためには、
瞑想とは何かを理解しなければならないことになります。

仏陀は言います。

「瞑想したあと、すぐに慈悲の心を持ちなさい。
 なぜなら、あなたが瞑想すると愛が深まり、
 心が満たされるからだ。

 瞑想したあとは、
 全世界への慈悲を感じなさい。

 そうすることで、あなたの愛を分かち合い、
 そのエネルギーを他の人たちが使うことができるように、
 大気中へと放出しなさい」
と。

ここでわかることは、
「瞑想すると愛が深まり、
 心が満たされる」

ということであり、
瞑想のあとには、その愛を分かち合うことで、
他の人達もそのエネルギーを使うことができる
ということです。

よく、精神的な探求の道には
「瞑想の道」「愛の道がある」
と言われています。

瞑想の道というのは、禅のように、
ひとり孤高のなかで、ひたすら一人で無心となること、
悟りを開くことを探求していく道です。

それに対して愛の道というのは、
スーフィーのように、
他者や神への愛に自分を捧げていく道です。

しかし、仏陀の瞑想においては、その二つの道は、
実はひとつの不可分の関係にあることがわかります。

Oshoは、そのことを、
「瞑想と愛は両翼の翼だ」
という言い方をしています。

そしてOshoもまた、
瞑想のあとは慈悲心を持つようにと説いています。

「あなたのエネルギーは、
 人々が必要としているあらゆる方法で
 助けになるべきだと感じなさい。

 ただそれを解放しなさい。
 あなたは重荷から解放され、
 とてもリラックスしたと感じ、
 とても穏やかで静かであることを感じるだろう。

 そして、あなたが解放した波動は
 多くの人たちを助けるだろう。
 いつもあなたの瞑想を慈悲で終わりなさい」

慈悲となることで、
瞑想のエネルギーは、
他の人の助けにもなる、

と仏陀とOshoは語っています。

瞑想ということだけにフォーカスしていると
つい自分自身の探求に終始してしまいがちです。

しかし、瞑想は慈悲となって
そのエネルギーが解放されてこそ

正しい瞑想として花開き、
香りとしての慈悲が放たれるものとなります。

瞑想が正しいものであるかどうかの判断基準は
慈悲がそこから放たれるかどうかということにある、

ということになります。

キリストは「汝の敵を愛せよ」と言いましたが、
これは慈悲の心のことを言っています。

慈悲の心は無条件です。

自分に好意的な人や、自分に関係のある人だけに
慈悲の心を持つことはできません。

なぜなら、
慈悲はすべてを含むものだからです。

そして瞑想もそうです。

瞑想の中では、すべての境界がなくなり、
自我もなくなり、自他の区別もなくなります。
すべてがひとつです。

そのような瞑想の境地から、
慈悲の心が生まれてきます。

スマナサーラ長老の慈悲の瞑想にあるように

自分が幸せであることを願うように、
自分の親しい生命が幸せであることを願い、

自分が嫌う人に対しても、
自分を嫌っている人に対しても

別け隔てなく、
すべての生命の幸せを願うことが慈悲の心です。。

そして、自分を愛するように、
隣人を愛し、敵を愛しなさいと教えているのが
キリストの慈悲です。

そして
あまねく生命への慈悲を深めるために
CCTでは、
コモンヒューマニティ(共通の人間性)
への気づきを深めていきます。

隣人も、敵も、自分の嫌いな人も
すべてはあなたと同じ要素(人間性)を持っている
ということに気づいていきます。

世界のすべては相互依存で成り立っています。

その相互依存の中では、
隣人も、敵も、見方も、
あなたの一部であり、鏡です。

自分と他人は別の人格だとしか見えない、
自我に基づく見方からは、
世界をそのように見ることはできません。

しかし、

瞑想が深まるにつれて、
慈悲が深まるにつれて、

慈悲心の目で世界を見て、感じること
もできるようになっていきます。

そこで大切なことは

最初の一歩は自分自身から
始めることです。

自分自身を愛することがなければ、
他の人を愛することはできないでしょう。

自分自身に優しくできなければ、
他の人にも優しくできないでしょう。

自分を嫌っていれば、
他の人も嫌うことになるでしょう。

自分に価値を見いだすことがなければ
他の人に価値を見いだすことも難しくなります。

そして、
慈悲をもたらすことについても
同じことが言えます。

どのように、慈悲をこの世界に
もたらすことができるのか?

CCTの最初の一歩は
瞑想、マインドフルネスから始まります。

そして、一歩一歩慈悲心を理解し
身につけていくようにしていきます。

「コンパッションは常に心を癒やし、
 あなたのレベルがどうであれ、
 あなたを助ける

 コンパッションは純化された愛であり
 ただ与えるだけで、見返りを求めない」

                Osho

CEJ
えたに