瞑想は花であり、慈悲はその香り

瞑想とコンパッションとの関係について
Oshoは次のような話をしています。

「ある冬の日、一人の無名の浪人侍が栄西の寺にやってきて訴えた。


『私は貧しくて病気です。家族は飢えて、死にそうです。禅師、どうか助けてください。』

貧しい者たちからのわずかばかりの寄進に頼っていた栄西の生活は非常に質素で、与えるものは何もなかった。
侍を見送ろうとしたとき、広間にあった薬師仏を思い出した。
栄西は薬師仏に近づき、その光背を引き剥がして侍に渡して言った。

「これを売るがいい。これでなんとかなるだろう」 

侍は戸惑いながらも必死になって光背を受け取って去っていった。

「師匠!」と弟子の一人が叫んだ。

「仏様への冒涜です! そんなことをしていいのですか?!」

「冒涜?そんなばかなことがあるか! 私はただ、仏の愛と慈悲に満ちた心を使ったのだ。もし仏陀自身があの哀れな侍の話を聞いていたら、彼のために手足を切り落としていただろう」。

仏陀の慈悲とはこのようなものなのか、
と感動させられる物語です。


そこで Oshoは言います。

「瞑想は花であり、慈悲の心はその香りだ。

 花が咲いて、その香りが風に乗って四方八方に広がり、
 地の果てまで運ばれていくようなものだ。

 しかし、基本的なことは、花が咲くということだ。」


Oshoがここで語っていることは、

人間は、自分の中に花を咲かせる可能性を秘めていて、その人間の内なる存在が花を咲かせることで、慈悲の香りが解き放たれるということです。

そのためにできること。

それは花が咲くということであり、瞑想するということなのだ、と。

慈悲(コンパッション)は瞑想をすることのなかで、自然と、なんの努力もなく、私たちの存在から存在全体に向かって流れていくものだというのです。

「瞑想をしなければ、同じエネルギーは情熱のままとどまり、瞑想をすることで、同じエネルギーは慈悲になる」とOshoは言います。

情熱と慈悲は二つのエネルギーではなく、ひとつの同じエネルギーであり、
瞑想を通過することで、情熱のエネルギーは変容し、変質し、質的に異なるものになる。

情熱は下に向かって動き、慈悲は上に向かって動き、
情熱は欲望を介して動き、慈悲は欲望のない状態を介して動く。

情熱は、自分が生きている不幸を忘れるために動き、慈悲はお祝いだ、と。


瞑想は花であり、根を持っているかぎり、私たちの中に存在しています。
それは私たちがいなくなれば、なくなってしまうものです。

しかし慈悲は、それが解き放たれると、それには根がなく、ただ存在全体に解き放たれ、漂っていきます。

仏陀の肉体はなくなっても、その慈悲は消去ることはありません。

花は枯れ、大地に戻っても、放出された香りは永遠に残ります。

仏陀はいなくなり、イエスもいなくなりましたが、彼らの香り、彼らの慈悲は今もなお存在し続けています。

彼らの慈悲に心を開いた人は、すぐにその香りを感じ、感動し、新たな旅に、新たな巡礼に連れて行かれるでしょう。

それが今もなお、仏陀を慕う人たちに起こっていることであり、キリストを慕う人たちに起こっていることであり、Oshoを慕う人たちに起こっていることです。

しかし、慈悲が、そのような瞑想の香りとしてのみ生じるものだとすれば、
なにか、私たちの手の届かないもののように思ってしまいます。

では、慈悲は、瞑想が花開き、その香りを放つまで、私たちの手に入らないものなのでしょうか?

そんなことはありません。

慈悲はすでに私たちの中にあるものです。

その慈悲に気付き、それにアクセスして、それを日常生活の中に活用していく方法があります。

それがCCTで学ぶコンパッションです。
https://compassioneducation.jp/about-cct/#schedule

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